2007年9月 5日 (水)

ヤシカ・エレクトロ35GL

Yashikaelectro35gl1 1973年(昭和48年)6月、34,500円で発売された。GTに比べてかなり変更されている。

レンズは伝統的に45mmだったものが、40mmと5mmワイド側にレンジを広げている。ファインダーも画像が大きくなり、見やすいファインダーに変わった。レンズ回りの「AUTO」「B]がなくなり、GTでは軍艦上部にあったフィルム感度表示がつけられた。

露出計のセンサーの位置もGTはファインダーの窓の左に配置されていたのに対して、レンズリングのセンター上に埋め込まれた。ホールド時に受光窓を指で覆うという事故も防ぐ上に、明度が変化するフィルターをつけたとき受光素子がフィルターの分まで露出を計算して出してくれる。

露出表示部が四角から丸に変わり、表示も矢印で表示することに変わった。フィルムのカウンターも巻き上げハンドルの右側から、上に変更された。

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2007年5月 7日 (月)

ヤシカ・エレクトロ35GT

Yashica35 1969年(昭和44年)3月発売。ヤシカエレクトロ35は1966年7月に発売された、ブラックボディーのバージョン。ヤシカは現在京セラに吸収されており、「ヤシカ」のブランド名は国外用である。

GT・・レンジファインダー式二重像合致式。レンズは固定式で交換は出来ない。レンズはヤシノンDX 45mmのF1.4。電源は水銀電池であるが、今は入手できない。シャッターの半押しで軍幹部のLEDが点灯して、露出の過不足が分かる仕掛けである。

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2007年3月 9日 (金)

おみやげ用写真機 KODAK TouristⅡ

Kamera0503 この写真機は2000年ころ、フリーマーケットで買った。

一人の青年が、この写真機1台を売るために店を開いていた。一目見て、おもちゃ写真機のようにしか見えないので、誰も相手にしなかったようだ。

ピカピカと綺麗な写真機だったので、運悪く、声をかけてしまい、いろいろ話を聞く羽目になってしまった。

アメリカに観光旅行に行って、日本で言うビックカメラのような店で、見たときはピカピカでかっこよい写真機ということで買ったということであった。日本に帰ってきて、フィルムの入手が難しいので、フラッシュの球は使ってなくなっているけど、未だ新品同様なので100ドルくらいで買ってくれないかということであった。日本円で1万6千円くらいになるので、要らないと断ったが、結局8千円で買うことになってしまった。

シャッターはFLASH KODON SHUTTER、速度はB,T,Iのみである。レンズは単眼KODETLENS、絞りは12.5,16.22.32.のアメリカ仕様。フィルムは620(This Camera does not take 120filmと裏蓋に注意書きがしてある)。フィルムカウントは背面の赤窓から。距離計など距離を設定する仕掛けはない。ファインダーから覗いて感できめるほかはない。まったくのおもちゃ写真機である。

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2007年1月18日 (木)

コダックHolidayFlash

Kodakholidayflash コダック社製造のおもちゃ写真機「Brownie Holiday Flash」。

シャッター、絞り等の設定はない。フィルムは裏蓋の赤窓で確認。フラッシュはシャッター圧下で作動。レンズ、コダック製。

ベークライトボディーはしっかりとした作りである。

製造はいつごろなのだろか?・・・・知らない。

数年前に骨董市で見つけたもの。

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2006年12月26日 (火)

BEAUTYFLEX

Beautyflex 太陽堂光機(後のビューティカメラ)製造の二眼レフ。太陽堂光機は豆写真機専業から始まり、スプリング写真機、二眼レフ、ビューティカンターのような輸出用の安価な写真機もたくさん製造している。

二眼レフも多様な機種を送り出している。この写真機はいつごろ製造されたのかは分からない。アクセサリーシュもなく、フィルムカウンターの赤窓もない。

絞りは正面右側のレバーを操作して、小さな小窓に現れる。またシャッターは反対側(左)のレバーを操作して、絞りと同じような小さな窓に表示される。絞りは3.5,4,5.6,8,11,22.。シャッタースピードはB,1,2,5,10,25,50,100,200である。レンズは帝国f=80cm、3.5.。

裏蓋の表面には絞りとシャッターの早見表が英語で取り付けられている。輸出用に作られたものかもしれない。

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2006年10月23日 (月)

BBセミファースト

Bbsemi_first 1940年(昭和15年)、栗林写真機製作所製造から発売になった。写真は翌年1941年(昭和16年)製造のもの。

使用フィルムは120(4.5cm×6cm)。

ファインダーに隣接してダークグリーン露出計をハウジングに入れている。わが国の写真機でダークグリーン露出計を内蔵させたのはこの写真機であった。

距離計連動式である。レンズはファストアナスチングマット4.5、F=7.5cm。シャッターはウェスターモデルーI。1~200その後にB、Tの順に並んでいる

写真機のボデイーの状態はしっかりしているが、板金むき出しである。

1941年は真珠湾攻撃によりアメリカに宣戦布告太平洋戦争が始まった。

この年、巳のさんが生まれている。

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2006年9月29日 (金)

コンパクト、ヤシカエレクトロ35MC

Yashicamg 1972年7月発売、18,000円。IC回路とフレキシブルプリント基板を小型軽量写真機として人気モデルであった。レンズ:ヤシノンーDX、F:40mm、2.8付。距離計とブライトフレームを省略してあり、ピンボケになりやすいのが欠点。作りは丁寧で、綺麗である。小さくても使いやすさはさすがにヤシカと思わせる写真機である。

浅間山荘事件、 札幌冬季五輪、 山陽新幹線開通、 沖縄返還、 日中国交回そしてパンダが上野動物園に。押すな押すなの大騒ぎであった。

18型トリニトロンカラーテレビ、 ポケット・インスタマチック・カメラ 、 カシオミニ計算機 デジタル電子体温計 が世に出てきた。

森昌子「せんせい」でデビュー。





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2006年9月 6日 (水)

ケースも可愛い、Bolsey Model B2

Bolseyb2 スイス人ヤコブ・ボルスキーがアメリカに渡って、設計した写真機。変わった写真機である。

1949年(昭和24年)発売。ボディーが台形で、大きさもタバコの箱くらいである。小さくて可愛い。ケースも女の子が好むように可愛い。重量も530gと軽い。

シャッターはエバーセット式と呼ばれるシャッターが搭載されているが、初めて見るスタイルである。簡単な構造とはいえ、1/200のシャッター速度を持っている。T、B、1/200、1/100、1/50、1/25、1/10。セルフタイマーはない。シャッターがバネを弾くので、1/200の高速を備えているので、ばね圧が高いため、手ブレを起こすと言う欠点がある。

絞りは3.2、4、5.6、8、11、16、22。撮影距離は0.66mから無限遠。レンズはウォーレンサック・アナスティグマット44mm、F3.2。3枚玉。

簡単な構造の割りに、連動距離計が搭載されている。一般的にある二重像合致式ではなく、上下合致式である。ビューファインダーは別窓となっている。距離をあわせた後、ビューファインダーをのぞいて、フレミングする。

手ブレが多いといわれるので、三脚は必需品??。

フィルム装てんは下部にあるレバーをopenの方に回転すると、背面と底が一体でハズレる構造である。

写真機背面に絞りと距離をダイヤルで計算する早や分かり表が取り付けられている。

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2006年8月18日 (金)

アグファ・ビリー

Agfa 1935年(昭和10年)。ドイツ・アグファ社製造。「日本カメラ博物館」で購入したパンフレット誌で名前が分かった。

使用フィルムは120(4.5×6cm)。

角型のボディーが特徴。「ビリー」の名前はアグファ社が製造した普及型の蛇腹を使用するロールフィルム写真機の中でも、代表的なもので、1920年から1960年ころまで製造販売されていた。

距離はレンズ枠の右側にあるレバーを操作する・・・珍しいと思う。

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2006年7月24日 (月)

最新式一眼レフ?キャノンT70

Canont70 1984年4月発売。FD35-70mmF3.5-4.5付きで104,000円。ボディーのみでは69,000円。望遠60~300mmはタムロン。巳のさんの持っている一眼レフでは最も新しい写真機である。

骨董市で4,000円で仕入れた。買うつもりはなかったのだが、あまり熱心に見ていたのだろうか、買ってくれると思ったのだろうか。「安くするからどうだと言いながら、10,000円では」と値を下げてきた。クラシク写真機しか興味ないといって断ったが、これだって、写真機の世界ではもうクラシックだよと言いながら、いくらだったら買うねと言って来た。一部不具合が見つかったので3,000円と言った。そして、当初12,000円といっていたのが5,000円でどうかといってきた。結局4,000円で手を打った。望遠(TAMRONFORCANON)、取り扱い説明書、外付けストロボ、写真機カバン、PLフィルター、UVフィルター一式がついてきた。レンズもボディーも超綺麗、機能はOKだった。

型式:35mmフォカルプレーンシャッター式ワインダー内蔵マルチモードAE一眼レフ。レンズ:キャノンズームレンズ。露出制御:複合型SPC素子使用、TLL開放測光。マウント:FDマウント。ピント方式マニュアルフォーカス。ファインダー:ペンタ固定アイレベル式、倍率0.85倍、視野率92%。フィルム送り:フィルム装填・給送:フィルム位置あわせ裏蓋とじで自動セット。電源:1.5V単32本。

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2006年7月 9日 (日)

コダック・PREMO

Kamera0264_1 PREMO(THE PREMO CAMERA)はコダックに買収されて写真機とフィルム「NO1PREMOFILM]」を発売している。

1913.JULY.8.の製造年月日と39102の製造番号が裏蓋の内側に刻印されている。(1913年は大正2年)

シャッターはEKC(イーストマンコダックカンパニー)のマークの上に、T,B,25,50,100。BallBearingである。シャッター位置はレンズの前にある。

フィルムは当然「NO1PREMOFILM」である。一枚撮りで、フィルムが装填されているカートリッジを差し入れて撮影する。9.5mm×130mm。

レンズはロッチェスターオプティカル(コダック製)である。

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2006年6月23日 (金)

ポケットサイズと言っても大きい写真機

          写真はNo1pocketkodakkodex シャッターメモリのコダックのマークの上に「NO1KODEX」と表示がある「No1POCKET KODAK」である。ポケットといっても折りたたんだボディーの大きさは165mm×80mm×30mmもあり、フロックコートのような外套のポケットにしか入らないのではないかなぁ。引き出したときの最大寸法は145mmである。

シャッターはイーストマンコダック社製。シャッタースピードはT、B、25,50の4段階。絞りF-6.3、8、11、16、22、32。レンズはコダックアナスチグマットF-6.3、105mmで、アナスチグマットはコダックでは上級機に取り付けられているのが多い。この写真機も上級機に属するのだろうか。

フォーカシングは左側のウォームギヤーを回転させて行うようになっている。

フィルムはNOA120。写真機の背面に赤窓とオーとグラフィック用のスリットがあり、そのスリットを押し下げてシャッター脇に取り付けられている鉄筆で記録を書き込むようになっている。しかし幅が狭いのであまり多くは書き込めない。撮影年月日程度か?

製造は1921年(大正10年)ごろから始められているようであるが、この写真機は1926年(昭和元年)製。写真機の程度としてはいいほうであろう。

大正天皇崩御は大正15年12月25日。翌日26日が昭和元年。この時、アメリカで時のクーリッジ大統領と会見していた秩父宮は急遽帰国することになった。その時、後で童謡で歌われることになった「青い目の人形」が秩父宮と一緒だったのである。約500体作られたと言う。

「都市型文化的集合住宅」の代表的存在である同潤会アパートの青山アパートの家賃が本に載っていた。西洋間35円、日本間25円だそうである。なお、当時の大卒者の初任給は50円程度だったと言う。

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2006年6月 9日 (金)

図体の大きいコダックNO1-A

          「1aoutkodak_1 NO1-A AUTOGRAPHIC KODAK JR」は私の持っている写真機では、アンスコNO1と同じく図体の大きい写真機である。200×95×40mmがボディーの寸法である。1914年(大正2年)ころから製造され、この写真機は1920年(大正9年)ころと思われる。古いわりには作りはちゃんとしている。

レンズはラピッド(RAPID RETILINEAR BAUSCH&LOMB OPICAL Co.)。シャッターはコダック(KODAK BALL BEARING SHUTTER)。シャッター速度は25、B,50,T,100の順である。絞りはUS-4、8,16,32,64,128と現在のものとはやや違っている。シャッター速度は設定速度で作動する。フィルム窓は赤窓式。また、裏蓋にはグラフィック用スリットがあり、スリットを開けて、備え付けの印字用鉄筆でデーターを書き込む。フィルムはNOA-116(110mm×65mm USE AUTOGRAPHIC FILM)。レンズがやや汚れているが、取り外してクリーニングすれば、綺麗になると思う。透視式ファインダー。

裏蓋の内側には特許取得の年月と国が刻印されている。PATENTED IN USA 1909年。CANADA 1909年。AUSTRARLIA 1913年。BRITISH 1914年。 その他1915年。

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2006年5月27日 (土)

イハーゲドリスデン

Photo ドイツ、イハーゲ社のスプリング写真機。製造年などは不明。レンズはドッペルペリスコープF:10.5cm。シャッターはZenith(ゼニス)の表記がある。ゼニスはスイスの高級腕時計を作っている会社であるが、この写真機のシャッターを作っていたのかどうかは、巳のさんは分からない。

Z(T),B,25,50,100でシンプルである。シャッターは完動でレンズも綺麗である。

ボディーも古い割には綺麗である。

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2006年5月19日 (金)

安さの王様 リコーフレックスⅤⅡS

Ricohflex_vs 1955年(昭和30年)製造・発売。ケースつきで8300円。リコーフレックスシリーズの頂点にある機種である。フィルムはブローニー(120)、6×6cm判。画面サイズ55×55cm。レンズ、リコーアナスチグマット80mmF3.5。ファインダーレンズ、リコービューワー80mmF3.5。シャッターはリケン、B,1/10~1/200でセルフタイマーつきである。

安い写真機といってもこの年の大学卒業初任給は銀行員で5600円だったそうであるから、やっぱり高い!のだ。

このころは街頭でのテレビが力道山のプロレスを放映しており、いつも黒山の人で込み合っていた。力道山の空手チョップが炸裂すると、やんやの喝采であった。テレビを持っている家では近所の人が集まり、さながら集会場のような賑やかさであった。今思うと、大変迷惑をかけたと思う。力道山は日本のヒーローであった。

この年は今のように少年犯罪が多発した年でもあったという。まだまだ、戦後の暗い影を引きずって貧困や子育ての出来ない親が多かったと、ものの本に書いてありました。

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2006年4月27日 (木)

35年前の写真に写真機が・・

Apr0203 天気がなかなか定まらず、雨がふったり、やんだり、冷え込んできたり不順な一日、箱に放り込んであった写真を整理しようとしていたら、子供の中に懐かしい写真機が写っているのを発見した。

1958年(昭和33年)ころ、親父が労働組合が開催した今流で言えば「フェアー」で買ったように記憶しているが、子供のころの記憶なので間違っているかもしれない。当時としてはなかなか優れた写真機であった。私の高校時代の写真はこの写真機で撮られたものが多い。

ウェスターオートロール(Westar Autorol)。6×6cm判のスプリング写真機。使用フィルムは120、フィルム自動巻き止め付き。シャッターwestarB~1/200だったと思う。距離計は二重像合致式連動距離計で、セルフタイマーを持っていた。はっきり覚えていないが取扱説明書に「西田光学」とあったような気がする。蛇腹にピンホールが出来て、子供のおもちゃになった。今なら蛇腹を修理して使ったかもしれない。

この代替として「ミノルタユニオマット」を購入した。(平成5年7月19日掲載)。この写真はそのユニオマットで撮影したものである。

Jan2904 Jan2905WesterAutorolで撮影された写真。私の高校時代のものである。あれから50年近くもたってしまった(笑)

左は体育祭、右は京都で撮影されたものである。焼付けはべた焼であったものを後年、物置に暗室を設けたときに焼きなおしたものである。

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2006年4月20日 (木)

NO1ポケットコダック

No1pocketkodak コダック社の写真機ははアメリカ、ドイツ、カナダ、イギリスな多くの国で特許を得ながら、製造している。

「NO1POCKET KDAK」はMADE IN POCHSTER N.Y.USA」byと刻印されている。1921年~24年(大正10年~13年)ころの製造・発売。フィルムは6×9mmで写真機本体でなく背面の方にセットされるようになっている。背面には赤窓とグラフィック用のスリットがあり、スリットを押し下げて、シャッター脇にセットされている鉄筆でデータを書き込む。この書き込み用の窓が小さいので、鉄筆で書き込むのは容易ではない。おそらく、あまり利用されなかったと思われる。

シャッターはコダック社、T,B,25,50で、レンズはコダックでは上級機に使われている「アナスチグマット」でF6.3、105mm。フォーカシングは左側のウォームギアーを回転させる。姿も美しい写真機である。

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2006年4月 7日 (金)

ツアイス ボックステンゴール

Zeiss_ikon050820 1925年ドイツ・ゲルツ社から発売されて以来、ボックスカメラとしては写りがよいということで評判になったと言うことである。レンズが単玉なのに「フロンター」という固有の名までつけられた。しかし、発売後1年余りでゲルツ社は4社のメーカと合同となり「ツァイス・イコン社」になった。

ゲルツ社の「テンゴール」は単玉レンズというけれども、凸凹2枚張り合わせのレンズであった。しかし、ツァイス社になってからは1枚レンズとなった。

この写真機はツァイス・イコンタ社になってからのものである。写真機はもとより、皮ケースは立派なものである。しっかりとして、丁寧に作られ、品格も優れている。昔の職人芸がしのばれる。写真機よりも高かったのではないかと・・・・・。今の写真機はソフトケースがほとんどである。

ツァイスの名前ゆえか日本では「ボックスカメラ」の代名詞になった。第二次大戦まで作られた長寿モデルでもある。

「ボックスカメラ」は合同前のエルネマン社製の「フィルムK」やコダック社の「コダック・ブローニー」などがある。

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2006年3月26日 (日)

PRINCE PEERLESS 製造所、発売時期は不明

prince_peerless PRINCE PEERLESS」・・MADE IN JAPANと明記されているが、出所身体は不明。

かつて、「プリンス」の名で写真機を製造発売していた、引き伸ばし機では日本ではダントツの栗林製作所に問い合わせしたが、該当機は見当たらないという回答を頂いた。

栗林製作所の引き伸ばし機「ラッキー」は若いころに月賦で買い、物置に暗室を自作して、沢山の写真を焼き増しした。カラーフィルムが高価なころはもっぱら白黒フィルムを愛好して、ラッキーのお世話になったが、カラーフィルムが安くなって、手ごろな値段となるとともに、ラッキーのお世話になることが少なくなっていった。管理の悪さからレンズにカビを発生させて、暗室も撤去して、自分で写真を自由に扱う時代が終了した。

写真機はカートリッジに入った一枚取りフィルムを裏の摺ガラスのビューでピントをセット後装填して撮影するタイプである。シャッターはドイツコンパーでT,B,1~250、レンズはリゾナー1:4.5、f=10.5cmD.R.P。クロム鍍金もしっかりとした発売当時は美しい写真機であったと思われる。

1920年ドイツ・ホクトレンダー社から発売になった「ホクトレンダーAvus」にシャッター・コンパーは同じである。栗林製作所からの回答の中に外国で製造されたものかもしれないという回答があったが、ホクトレンダー社からOMEされたものか。それろもまったくのコピー機か。

1924年(大正13年)昭和天皇が良子妃殿下と結婚。写真機のネーミングからこの記念に発売されたメモリアル写真機かと夢を膨らませている。

2006年8月13日「日本カメラ博物館」でパソコン検索で「プリンセス・ピアレス」を発見した。

ファインダー部:ブリアントファインダー、レンズシャッター、フィルム:乾板。フォールディング写真機。桑田商会、藤本製作所とある。1934年製造。

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2006年3月19日 (日)

輸出もされた町工場で作られた写真機 ATOM-6Ⅱ

6 戦後日本の復興期には沢山の写真機が四畳半メーカーと言われる町工場で作られた。この「ATOM-6Ⅱ」もその当時の写真機である。この写真機の前に[ATOM-6Ⅰ」が作られていたようであるが、よく分からない。

製造はアトム光機製作所。レンズは「アトマー80mm、F=3.5」シャッター(SLUP?と思う)B,1~1/200、焦点調整は前玉回転。セルフタイマー付。フォーマットは6×6、6×4.5。発売は1952年(昭和27年)~1955年(昭和30年)頃。

やや大型なボディーで重い。当時のスプリング写真機ではみな同じようなものである。この写真機の特徴は透過、反射式両ファインダーを持っているということである。

結構輸出もされたようであるが、写真機が35mmが台頭してきた頃(1960年・昭和35年)には消えて行った。

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2006年3月15日 (水)

昭和初期 バルダックス

          ドイツBaldaX バルダ社製造、昭和初期に日本でも普及したブローニー写真機「バルダックス」。70年以上も前の写真機であるが、作りもしっかりとして、コンパクトなスプリング写真機である。レンズはカールツアイス、テッサー1:3.8、F=7.5cm。シャッターはコンパーラピッドT,B~400。

バルダ社は1908年(明治41年)創業で、当初はカメラ用品を製造、1920年(大正9年)写真機製造に参入し、小型写真機を続々と発売したという。1930年代に入ると多くのスプリング写真機を発売している。この時季がバルダ社の最盛期だった。

1935年(昭和10年)35mm写真機「バルディナ」を発売してきたが1999年(平成11年)写真機から撤退、デジタルカメラつき携帯電話機製造をしている。

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2006年2月27日 (月)

名無しのゴンベェ・・。無銘の写真機

kamera0294 製造年月日、写真機の名前は表示されていないので不明である。

後ろにガラスのビューがあり、そこに逆さに画像が映し出される。ピントを合わせてからフィルムを装てんする。フィルムは一枚撮り、フィルムケースを写真機の後部に差込、フィルムのふたを引き上げて撮影し、撮影後ふたをしてフィルムを取り出す。シャッターはコンパーT,B~250、絞り4.5~32(7段階)。レンズは「Jhagee-Anastigmet」1:4.5 f10.5cm。

一枚撮りのフィルムケース5枚、そのうち一枚にはフィルムが入っているが、撮影済みなのか未撮影かは確認していない。フィルムは劣化していると思う。写真機は割合しっかりしている。

いろいろ問い合わせてみたが、不明・・・知ってる方があれば教えていただけると嬉しい。

(3月6日)記。

フォクトレンダーが1920年代に発売している「フォクトレンダーAvus」にそっくり。この写真機のコピー機なのかもしれませんね。

2006年4月5日、アドリエンさんから、Ihagee社の「Patent Duplex710型」であるというご連絡がありました。アドリエンさん、ご連絡ありがとうございました。

Pduplex

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2006年2月19日 (日)

西ドイツ フォクトレンダー社製 ビッサマチックm

hpkutorender-bessamatic 1964年(昭和39年)から1966年(昭和41年)にかけて製造された「BESSAMATICm」は交換レンズを9種類を持っている。写真は「SUPER-DYNAREX」1:4/135のレンズを装填したところである。シャッターはシンクロコンパーX、。

BESSAMATICは1959年(昭和34年)にフォクトレンダー初のレンズ交換一眼レフとして発売され、1962年(昭和37年)Delux,そして1964年にm、1967年CSが発売されている。シリーズ4機種となっている。ピカピカと光るクロム鍍金、ずっしりとした重量、頑丈なボディーはドイツ写真機の真髄を見せている。

フォクトレンダー社は1756年に誕生した、世界で最も古い光学機器メーカーである。その卓越した技術とアイデアで「俺は、フォクトレンダーだぁ!」と言わしめる個性ある写真機を多く世に出している。

1956年(昭和31年)創業200年目にツアイス・イコンタ社の参加に入ったが、イコンタの高級化に対して、フォクトレンダーの写真機は大衆化写真機としての製造を続けてきたが、いつの間にか消えていってしまったのである。

1999年(平成11年)日本の写真機メーカー「コシナ」がフォクトレンダーブランドの写真機の製造・販売を開始している。

最近のテレビで懐かしい歌を沢山放映していたが今でも唄われて、古さを感じさせないことにびっくりした。この写真機が発売されたころの歌である。美空ひばり「柔」、坂本九「明日があるさ」、都はるみ「アンコ椿は恋の花」・・・・・などである。

また、好きな女優の「高島礼子」や話題の多い「杉田かおる」、いじめの時間などの小説やエッセイなどの売れっ子作家「江國香織」さんもこの年に生まれている。

最近気づいたのが北朝鮮に拉致された「横田めぐみ」さんもこの年に生まれていたことである。1977年8月に拉致されてしまっているが、早く両親の元に返られるよう祈っている。

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2006年2月12日 (日)

ポケットフジカフラッシュAW

FUJICAFLASHAW 1972年(昭和47年)3月、コダック社が手帳を厚くしたような箱型の「コダックポケットインスタマチック」と専用カートリッジに納めた「110カートリッジフィルム」を発表。シャツやズボンのポケットに入れて、手軽に持ち運べたので「ポケットカメラ」の愛称で呼ばれた。

フジカは1975年(昭和50年)1月「ポケットフジカ」5機種(200,300,400,500,600)を海外、3月に国内に発売した。

写真は1979年(昭和54年)4月発売された。フィルム自動巻上げ機構を付加しての発売。これ以降も次々と使い易さと機能化が進められて行った。

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2006年2月 4日 (土)

富士フィルムの一眼レフ フジカST801

fujicaST801051024 35mmレンズシャッター写真機とシングルー8の映写機でブランドをきずいてきた富士フィルムも1970年代(昭和45年)にはいり、写真機のコンパクト化や高機能化をはかって総合写真機メーカーとしての戦略を展開してきた。しかし、TTL式フォーカルプレーン一眼レフ写真機がプロカメラマンからアドバンスアマチュアーの間でも愛用されはじめてきた。さらにクイックリターンミラーが開発されてから一般アマチュアー層へ浸透して行った。そんな中で、富士フィルムでも更なる発展と輸出の拡大を図るため、一眼レフに参入した。

1970年(昭和45年)7月、小型軽量一眼レフ、フォーカルプレーン「フジカST701」を国内・輸出用に発売した。この小型化がその後各社の一眼レフ写真機の小型化の先駆者となった。

この機種をベースに性能アップとシステムの充実をはかって、1972年(昭和47年)9月に発売になったのが写真の「フジカST801」である。ファインダー内の表示は、世界で初めてLED(発光ダイオード)を採用した。交換レンズも14種(望遠、広角、ズーム、標準・・・)が整備されて、富士フィルムの一眼レフの主力機となり、国内、輸出と延びていったのである。

その後、1974年(昭和49年)4月「フジカST901」、1976年(昭和51年)3月「フジカST605」、1978年(昭和53年)6月「ST605Ⅱ」、ストロボ内蔵で「ストロボ一眼」の愛称で1979年(昭和54年)6月「フジカST-F」が発売されている。

1970年は大阪万博が開催されたり、日航「よど号」ハイジャックがあったりしたが、景気はよかった。1972年田中角栄「日本列島改造論」発表され、好景気を迎えようとしていた。そんな矢先、赤軍派学生の浅間山荘事件 が発生し、テレビが現場中継、国民の多くは一日中テレビに釘付けとなった。

ST801が発売になった1972年、忘れられない出来事は、横井正一さんが観光客でにぎわうグアム島で発見され、出征から31年ぶりで故国の土を踏み、「恥ずかしながら」と語ったことが、国中を賑わしたことである。

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2006年1月27日 (金)

ドイツウェルタ社 ベルレ

walta_parle ウェルタ(ヴェルタ)社は、1914年(大正3年)、旧東ドイツ・ドレスデン近郊に創業した写真機メーカーである。バルダ社同様、多種多様なフォールディングカメラの生産を行なったことで知られている。

写真の写真機は第二次世界大戦前に作られた「ペルレ(Perle)」である。1930年(昭和5年)代ごろから日本に入ってきた、当時としては数少ないブランドであったという。この写真機の正確な製造年は不明。ウェルタ社はそのほか「ソリダ(Solida)」、「ウェルツル(Weltur)6x9、6x6、6x4.5」などの中版カメラの名作を生み出している。操作性の良さでは定評のあるカメラであったという。
1930年代にも関わらず、レンズは2.8、カールツアイス社、シャッターはコンパーラピッド(T,B,1~400)という優れものではあった。

しかし、写真機の状態はすこぶる悪い・・・・ただスタイルを楽しむ程度の代物である。

骨董市で日本語が書いてないから、外国の写真機だよと店主は言っていたが、間違いではないけど、日本の写真機だって日本語で表示してあるやつなんてあるもんか・・・と言いたかったが、止めた。写真機の状態も最低だったので買うつもりもなかったから、店主と遣り合ってもしょうがないと思った。ところが買う羽目になってしまった。1000円でも500円でもいいから、買ってくれないかと懇願され、店主の言うとおり500円で、ボランテァしてしまった。はっきりとノーといない日本人の典型である。

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2006年1月22日 (日)

ドイツ写真機の模倣??ウェルミー6

Welmy-6 ウェルミー6(Welmy6)、1953年(昭和28年)大成光学(戦前はライラ6などを発売した富士光学)が戦後作ったスプリング写真機の一つ。シンプルスタイルで、廉価に徹底した作りであった。また、国内より輸出用に作られたのか、ほとんどが輸出されたようである。

写真機の姿はドイツの写真機「イコンタ」、名前は同じくドイツの「ウェルタ」にそっくりである。当時の日本の写真機はドイツのコピーが町工場で作られ市場に氾濫した時代でもあった。全世界的に写真機はドイツの模倣が氾濫した時代・・・日本の写真機界も例外ではなかったのかもしれない。

1950年(昭和25年)昭和産業から発売された「ルビナル120」という写真機を雑誌で見たことがあるが、イコンタ・・・・・ウェルミーに形体は似ている。やっぱりドイツ「イコンタ」をまねしたのだろうか。

前に紹介した「ライラ6」と同じように、高級で高価で手に入らない写真機を、一般庶民に手に入り易いようにして、写真に親しめさせたということは立派と思う。

このころのサラリーマン(親父は当時の言葉で言えば工員)の生活はストライキなどで、不景気のため白いご飯は食べられなかった。白いご飯が食べられたのは、黒いダイヤを掘っていた炭鉱従事者であろう。南瓜やサツマイモの入った麦飯、それが主食の時代であった。米や麦が手に入らなければ、薩摩芋、ジャガイモ、南瓜、蕎麦がき、粟などの代用食であった。その後、朝鮮戦争が勃発して、特需景気となり、少し生活が改善されてきた。

朝鮮戦争は戦後の日本復興の起爆剤ともなったと思う。

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2006年1月14日 (土)

ライカにあやかったのか・・・ライラ6

raira6 2006年の年明け初めての書き込み。正月をのんびりとしていたせいか、時間の錯誤で時の過ぎ行くのも忘れてしまった。

写真機といえる形の写真機・・・・複式写真機(スプリング写真機)、このスタイルの写真機がすこぶる好きである。

この「ライラ6(LYRA)」は1939年(昭和14年)、富士光学がすこぶる安い定価74円で発売した「ライラ」シリーズの一台である。最初の機種は上下開閉するスタイルだったものが、これは横開きである。いつこのスタイルなったのかは知らない。

ドイツのライカにあやかって名づけられたことは、写真機の形からも容易に想像できる。当時の写真機はドイツのコピーといわれるくらいそっくりなものが、沢山、安く出回っていた。シャッター速度計(B~200)は付いているが、距離は目測式の距離計無し、絞り無しのいたってシンプルなスタイルである。今では考えられない機構であるが、当時は当たり前だったろうから、工夫しながらそれなりにいい写真を撮ることが出来たのかも知れない。輸出もされていたらしい。フィルムは120(6cm×6cm)。番号読み取り式。

高価な写真機の中でこのような写真機が、世の中に出たおかげで写真というものを、大衆が身近に楽しめたという功績は大いにかってもいいと思う。ライカの1/4の価格であったと言われている。

富士光学は1953年(昭和28年)社名を「大成光機」と変えたが、35mmフィルムの写真機の登場で、いつしか市場から忘れられた存在となって行った。戦前、戦後の雨後の竹の子のように出てきて、沢山の種類の写真機を生み出した写真機の製造会社は、35mm写真機の登場とともにほとんどが消えて行った。

1939年 日本で始めて「初任給制」が導入された。これは物価統制の一環であると同時に、企業が賃金で優秀な人材を確保することを禁じた法律である。このときの「初任給制」では、各企業内だけでなく、日本の全企業の初任給が同一とされた。軍国主義がますます強くなって行った時代だったから・・・・・。

追記:1月20日、横開きのライラ・・「セミライラ」は昭和11年製造であることが判明した。また、昭和27年製造の「ゼノビアR」、昭和29年製造の「モスコー」と兄弟機だそうである。

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2005年12月31日 (土)

35mm写真機の普及で消えて行った エルボーフレックス

Elbowflexエルボーフレックス。エルボー商会、製造発売は1950年代(昭和25年ごろ)か。手元にデータが不足してるので、詳しいことは分からない。戦後日本の復興期(1945~)に作られ、輸出もされた二眼レフである。ボディーはダイキャストでしっかりとしたつくりで、丁寧に作られている。

いわゆる四畳半といわれる町工場で作られたた二眼レフは、沢山のメーカーが乱立してそれぞれのブランドが市場に出て行ったが、四畳半メーカーのほとんどは二眼レフの時代から35mmに移行する頃(1960年代)に消えていった。このブランドもその一つです。

2006年5月30日追記:レンズ、コレクト・アナステイングマット、1:3.5、F=80mm。シャッター、TSK。B,1~1/200、セルフタイマー付。焦点調整 前板繰り出し式。フィルム二重撮影防止はなし。自動巻き止め。

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2005年12月25日 (日)

戦前から多くのファンがいたマミヤシックス

mamiya_six_kマミヤシックスK型( Mamiya Six K)1954年8月(昭和29年)発売。ケース付き、シャッターがコパル付きとコパル・MX付とあり、前者が18,800円、後者は19,500円。写真はコパル・MX型である。バックフォーカシング方式。距離計連動スプリング写真機。フィルムカウンターは赤窓で番号読み取り式。

画面サイズは6×6、6×4.5判兼用。6×4.5mmセミ版の画面マスクは中枠を画面にはめ込む方式。スプリング写真機では大型の部類か。重量約830g。

マミヤシックスは沢山の種類が発売されている。マミヤシックスが最初に発売されたのは、1940年12月(昭和15年)、世界初のバックフォーカシング式距離計連動スプリング写真機である。当時の価格は428円だったという。現在の価格に換算したらいくらなんだろう。それ以来1958年(昭和33年)マミヤシックスオートマット2型(当時の価格24,000円)まで12種類のマミヤシックスが世に出て行ったのである。戦前多くのファンがマミヤシックスを首からぶらさげて誇らしげにあるいていたという。

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2005年12月22日 (木)

人工衛星が飛んだ年に発売 マミヤ ワイド

MAMIYA35 1957年(昭和32年)11月発売。価格21,000円(本体20,710円、皮ケース1,090円)。丸みをおびたダイキャストボディーは今でも美しい。マミヤ35Ⅲ型のボディーを土台として35mm広角レンズをつけたレンズシャッター式(セイコーシャ MFX 00番)写真機。レンズはセコール35mmF2.8(4群6枚構成)焦点調整はヘリコイド式。重量約700g、ずっしりとした重量感がある。好きなタイプの写真機である。

この年はなべ底不況の底を這い回っていたようであるが、中学卒業生はまだまだ金の卵ではあった。隣の村(今でも合併をせずに頑張っている)東海村で原子炉が完成し、大騒ぎだったことを覚えている。原子力研究所への就職が工業系の高校生の憧れでもあった。

また、ソ連が人工衛星「スプートニック」1号、犬を乗せた2号が相次いで打ち上げに成功し新聞を賑わした。アメリカはこの年打ち上げに失敗。日本でも糸川英夫らの「カッパー4C」1号機が打ち上げに成功して、初の観測用ロケットとして、宇宙に羽ばたいた。ロカビリーブームでもあった。不景気ではあったが賑やかな年でもあった。

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2005年12月19日 (月)

4畳半メーカーの写真機?Mine SixⅢS

MineSixS 1955年(昭和30年)ごろは130社の写真機メーカーがあったという。4畳半製造所と言われたところから大きくなったメーカーや姿を消したメーカー。この写真機「MineSixⅢS」のスプリング写真機を作った高嶺光学はその後どうなったかは知らない。

写真機はしっかりとした作りである。フィルム巻き取りは巻き取りノブの後ろに小さいレバーがあり、それを押さないと巻き取れない。巻き取りノブを回していくとカッチと小さな音とともにレバーが飛び出して、巻取りノブが固定される。シャッターもフィルムを巻き取ってレバーが飛び出していなければ切れない。二重写し防止になっている。珍しい装置である。

レンズは帝国光学、後のズノー光学の「ズノーレンズ」が採用され、シャッターは「コパル」(現日本電産コパル株)のB~300。1955年発売の「ヤシカフレックスモデルC」と同じタイプである。

ズノーレンズを作っていた帝国光学はレンズ研磨を業として1930年(昭和5年)創業。1958年(昭和33年)一眼レフで写真機製造に参入したが、故障による返品多く、500台あまり製造して、生産中止となっている。プロ、報道カメラマンにはその映像解析の優秀さで人気があったということである。1961年(昭和36年)レンズの供給先であった8mmメーカーのアルコ写真工業の倒産の余波により、倒産した。

シャッターのコパルは1949年(昭和24年)5月21日、写真機用シャッターメーカーとして創業。1998年日本電産と資本提携して「日本電産コパル株」として、デジタルなど写真機、複写機などのシャッターメーカーのトップメーカーとなっている。

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2005年12月10日 (土)

Wの付く写真機メーカーのひとつ、ワルツ商会

walzflex01 日本の写真機の名前はA~Zまであるといわれている。そのうちWの付く写真機を作っている製造会社は4社。ワルツ商会の「Walz」中央写真の「Wacoh」大成光機「Welmy」ウェストマット「WestMat」である。

写真はワルツ商会が1955年(昭和30年)に発売した「WALZFLEX」、発売価格は10,000円。丁寧に作られており、50年前の製品とは感じさせない。ワルツ商会の写真機は「絶対故障がない」という大胆なキャッチフレーズで写真機を売り出している。

1956年に発売になったレンズシャッター機「WALZ35S」も重量感があり頑丈で、距離計連動式でデザインもシンプルで人気があったという。

ワルツフレックスが売り出された1955年の大学卒業初任給は9,500円。その大卒初任給の価格にほぼ合って発売されている。写真機はやっぱり高かったのである。

コーヒー一杯・・・30円、ラーメン・・・25~30円、カレーライス・・・60~80円、タバコピース(10本入り)・・・45円、映画・・・150円(2本立て)、都電の運賃が一区間13~15円程度だったという。

写真機を持って歩いているというのはまだまだ道楽だったのでしょうね。

当時の現像、焼付けはいくらだったのかなぁ。

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2005年12月 1日 (木)

オリンパスが電子化を進めた普及機 OM-10

olympusOM-10 1979年(昭和54年)6月、45000円で発売。

1972年(昭和47年)9月発売した「M-1]は、現ライカ社から「M]表示について、クレームがつき、クレーム前に製造された5000台を発売したが、その後「オリンパス」の「O]をつけて「OM」となって発売。初代機は「OM-1」その後、「OM」はシリーズ化された。「OM-1」が出た1970年頃は、機械式シャッターが全盛であった。その後、エレクトロニクスが導入される兆候に対応した「OM-2」が登場。1983年(昭和58年)マルチスポット測光搭載の「OM-4」が登場してきます。

「OM-10」は絞り優先オート専用の中級機。普及機の先駆けとして、積極的に電子化された。

従来の写真機からサイズは3割減、体積・重量は約半分となっている。「軽快でシャープな写真を撮る」という写真機の機動性、操作性、堅牢性が反映された名機である。

この年「泳げタイ焼き君」がヒット。子供も大人もすぐ口ずさんだような気がする。またターンテーブル式の電子レンジが登場したと思う。電子レンジは高価であった。普通の家では当時契約電力が少なく、レンジの容量をカバーできず、契約電気をアップしてからであった。そのため専用コンセントの取り付けなどの電気工事が必要で、その工事のため退勤後や休みの日はアルバイトに精を出していた。

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2005年11月21日 (月)

孫のおもちゃになってしまったキャノンオートボーイ2

canonautoboy2 1979年(昭和54年)11月発売になった、キャンノンオートボーイ・オートフォーカスを小型化して1983年(昭和58年)4月に発売、レリーズ半押しでのプリフォーカス機能が加わりフィルムもプリワインド式を新たに採用した普及機。発売価格42800円。

オートボーイの価格は比較的高い。一眼レフが買えそうな価格でもある。AF機だからだろうか。評判が高かったレンズのコストが高かったせいだろうか。キャノンデミなどのハーフサイズは価格もハーフ。(一番高いキャノンデミCでさえ18000円である)。

キャノンオートボーイは現代の主流、フルオートコンパクトの先駆けとして登場し、手軽に誰でも写真が撮れるというコンセプトを高次元で実現した。オートフォーカス、オートワインダー、オートストロボという3つの機能をこんぱくとにまとめ「片手で撮れる」をキャッチフレーズに写真機の新時代を切り開いた。その使いかっての良さは現代においても決して色あせず、今直オートボーイとして各機種が登場して人気を博している。

この写真機は最近、残念ながらフィルム枚数計とセルフタイマーが作動しなくなり、小学2年生の孫のおもちゃとして余生を送っている。ただし、ストロボも健在なので、撮影することには支障はない。

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2005年11月12日 (土)

シンガポールで買った写真機 kodakJr

kodakJr1914 この写真機は2002年6月シンガポールで買ったもの。多分1914年(大正3年)製のポッケットコダックJRだと思う。コダック社の写真機はアメリカやヨーロッパドイツ製のものもたくさん出ているのであまり自信はない。

フリータイムでホテルオークラとクラークキーの間で開かれていたフリーマーケットを見歩いていた時、マレー系の若い男性が開いていたガラクタ?のなかに少しくたびれた写真機、これがこの写真機です。

よく見てみると程度はまあまあ。お兄さんが一生懸命シャッターを切って、何か喋っているがさっぱり分からない。よく聞いているとシャッターを切りながら「OK,OK」と言っていた。きっとシャッターは動くと言っていたのだろう。手にとって見てみろと言うのか、私の手に持ってきて、シャッターを切ってみろというので、シャッターを切ると「OK,OK・・」と盛に言っていた。日本人と分かって売ろうと言うことだったのかもしれません。「ハウマッチ」というと「シックスーティ(60ドル)」しばらく黙っていると「サァティー」と言う。半分である。さらに黙っていると写真機を手から取って、元の所に置いて、両手を広げてウインク。30ドル(約2100円)以下は駄目かと思ったが、だめもとで「トニー」と言うとしばらくして「トニーファイブ」という。私が首を振ると「OK」という。結局20ドル(約1400円)で交渉成立。言い値の3分の一でした。

暑い太陽にあたりながら、汗をかきながら30分の攻防でした。この界隈は中国系の骨董店が多いところでもある。白人たちも盛に品定めしていましたがDLのミッキーマウスまで並んでいました。

クラークキーの露天で日本の米菓子を作る木彫りの型を売っていたのにはビックリしまたが、安かったので3つ全部買ってきました。

クラークキーはリバーサイドの古い町並みを取り壊して出来た新しい歓楽街。露天商や駄菓子、レストランやバーが軒を連ねて、毎日が縁日のような繁華街である。今回の訪問は4回目であったが古いものを上手に残しながら、新しく変わって行く活気ある国で好きです。

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2005年11月10日 (木)

珍品写真機 キャノネックス

kyanoneto 1963年(昭和38年)10月、キャノンから発売された、ヨーロッパ市場向けの写真機。ドイツ製レンズシャッター一眼レフに対抗する写真機がほしいという、ヨーロッパのディーラーからの要請で開発された、キャノン唯一のレンズシャッター式EEミラー一眼レフ。

当時ヨーロッパでは、デッケル社製ビハインド式レンズシャッター一眼レフが人気であった。キャノネックスはシャッタースピード優先式EEとクイックリターン式ミラーで、市場をリードするドイツ製レンズシャッター機に対抗した写真機。

高機能と驚異的低価格で写真機の大衆化革命に成功したキャノネットと高級一眼レフのキャノンフレックスを合わせる形でキャノネックスと命名されたというということである。が、約半年で生産中止となった短命モデル。

キャノン唯一のレンズシャッター式一眼レフとして、コレクターズアイテムとなっている珍品写真機である。

オートを解除すればマニュアル露出も出来るなど、シンプルな外観に似合わない凝ったメカニズムが凝縮された写真機でもある。

くたびれたケースに収めらていたので、きっと誰も振り向かなかったのでしょう。ケースを開けて、思わずニヤッとした。程度はあまり良いほうではなかったが、機能はOK.。骨董屋のおやじさんもあまり写真機には関心なかったので、安く(1,000円)購入できた。写真機に関心がない骨董屋からはたまに珍品が安く手に入ることがある。写真機に造詣が深いと薀蓄を傾けて話をしたがり、高い。無関心がいい(笑)

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2005年11月 6日 (日)

暗箱の中の映像 コダック2号ブローニー

buro-ni-05830 1901年(明治34年)、ボディーは軽量な針葉樹を用いた木製、中のフィルムはなんと紙製。そんな写真機「コダック2号ブローニー」がイーストマン・コダック社(当時はニューヨークくではなく、ニューヨーク州ロチェスター)から発売された。その後、木製からブリキになった。ブリキ細工の何の変哲もない箱はコーラーやハンバーガーと同じようにアメリカ大衆に受け入れられていったようである。

固定焦点レンズと単速のシャッターを押すだけの写真機は現在の「写るんです」写真機にまで繋がってきているのである。

写真のブローニーは1914年(大正3年)10月に箱は、ブリキ箱に変ったが最初のスタイルのまま単玉レンズとブリキのシャッターをつけたままのものである。コダック社は写真機というより、フィルムを売るという基本路線は今でも面々と続いているのである。フィルムは6×9cm(120)。

コダック社のフィルムの歴史は1888年に始っている。それ以前のガラスの乾板から写真の普及は飛躍的に伸びて行ったのである。

小学4か5年生の頃、理科で暗箱を2個作って、針で穴を開け、一方の箱にはすりガラスを取り付けて、箱をスライドさせ、ピントを合わせた「針穴写真機」を思い出します。その暗箱にレンズとシャッターを取り付けだけのものですが、当時としては画期的な発明だったのでしょうね。

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2005年10月24日 (月)

フィルム会社が作った写真機 ST801

fujicaST801051024 1934年(昭和9年)大日本セルロイドから、写真フィルム部が分離独立して、「富士フィルム」が設立。1960年代、35mmレンズシャッター機のEE化をきっかけに写真機製造を開始し、1970年(昭和45年)STシリーズが誕生した。

写真の写真機は1970年初代機ST701(ねじ込み式のプラクチカマウントを採用した、フォーカルプレーンシャッター機。)の後継機で開放測光を採用。ST701の受光体はセレンではなく、シリコンプレーセルを取り入れていたが、これの写真機ST801は、シリコン受光素子により、世界初のLEDによる7点露光表示方式が組みこまれて、写真機市場に大きな影響を与えたという。

1978年(昭和53年)ST605Ⅱが発売。中高生を含む若者層を狙った普及機で「フジカマークⅡ」の愛称がつけられ、富士フィルムの写真機はヒット。

1970年は大阪万国博覧会(EXPO'70)が大阪府吹田市の千里丘陵で開催(3月14日~9月13日)。77カ国が参加し、入場者は目標を大きく上回る6422万人(外国人170万人)。中央のシンボルタワーは岡本太郎の「太陽の塔」。
今年愛知で開催された「地球万博」の1000万人にはかないませんでしたが・・・。
三波春夫が歌う万博音頭「こんちは、こんにちは、世界の国から、1970年よ、こんにちは・・・」が大ヒットしました。
また、作家三島由紀夫が自衛隊に「盾の会」会員4人とともに乱入、クーデターを呼びかけたが、追従者がなく、割腹自殺。世界的にも有名な作家の起こした事件で、内外に反響を巻き起こした。
日本航空の「よど号」が日本赤軍派学生9人に乗っ取られ、北朝鮮亡命したなど、騒然とした年でもありました。

鶴田浩二の「同期のさくら」や「傷だらけの人生」がヒット。カラオケのない時代、宴会では必ず唄われ、「同期のさくら」は合唱になることもありました・・・・もちろん私もどさくさにまぎれて。

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2005年10月22日 (土)

一眼レフ初心者を狙った入門機 ペトリV6

PETRI-UVI 1959年(昭和34年)栗林製作所から発売されたペトリ一眼レフシリーズでシャッターボタンをフロント面の左側に、斜め上を向いた格好で配置され、当時としては斬新なスタイルで、写真機を構えてシャッターを切ってみると押し込み具合がいい。ホールディーングもいい。この写真機はその後、後継機V2、V3(1964年2月発売),V6(1965年)へと引きつながれてきた。 V3は27,800円とフォーカスプレーンシャッターを備える一眼レフとしては当時最も安い写真機であった。この写真機の価格設定が引き金となって、一眼レフの低価格化に拍車がかかったといわれている。

写真の写真機はV6(昭和40年)で、V3を受け継ぎながら軍艦部のデザインを更新したモデル。V3は軍艦部の前面左に外部取り付けのための二つのボタンを装備していたが、V6にはない。

V3では笑えない思い出がある。1964年(昭和39年)9月に結婚したが、友人がV3(当時は最新式の写真機であった)を近くの先輩から借りて来て、結婚披露宴(今のような豪華ではなく、親戚、友人だけのささやかなものだった)の写真を取り巻くってくれたので、安心していた。新婚旅行から帰って、友人から全部失敗だったことを知らされた。そのV3の写真機からは一枚もまともなものはなかったのである。今のようにシャッターを押せばいい写真が取れるというものではなかった・・・・借りてきてはじめての撮影のため、写真機の扱いに慣れていなかったための失敗であった。だから、そのときの模様の写真はないのである。扱いやすい写真機といっても、やはり難しいのである。写真はなくなったが、41年も続いているのだからよしでいい。写真屋が撮った自分でないようなハンサムに写っているスチール写真はある。写真はもちろんモノクロ。アルバムに貼ったままで、しばらく見ていないが、セピア色になっているかも?

ペトリという廉価、手軽で扱いやすい写真機を作ってきた栗林製作所は創業は明治であったが、1977年(昭和52年)、それまでフロント面に配置していたシャッターボタンをシャッターダイヤルの同軸に移動したMF-1を登場させたが、同年に会社整理を申請、永いペトリの歴史を終えたのである。

なお、1979年海外向け(輸出用)にペトリTTLを製造している。

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2005年10月16日 (日)

レンズ交換のできる二眼レフ マミヤC33

02 1952年(昭和27年)「マミヤフレックスC」として発売。CシリーズとしてC2,C3,C33、C220、C330が最終モデルです。C33は1962年発売。

普通の二眼レフから始ったマミヤフレックス・オートマットから進化してきた写真機で、撮影用とフォーカシング用の2本のレンズをセットされたボードごとに交換が出来るという世界で唯一の特徴ある写真機です・・・・マミヤ光機の間宮精一氏のアイデアだと言われています。巻上げがノブからクランクに変わって速写性が向上している。

蛇腹により近接撮影も出来て、中判写真機としては高性能な写真機だと思います。

交換レンズは55mm、65mm、80mm、105mm、135mm、150mm、180mm、250mmと8種類の焦点距離が最終的にはそろった。写真のモデルのレンズは105mmで、そのほかの交換レンズは持ち合わせていません・・・・残念です。

ボディーは大型で普通の写真機に比べるとかなり重い。首から提げて歩くことは勘弁してほしい・・・・写真機です。重量約1650g(リコーフレックス780gに比べるとかなり重いと思う)

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2005年10月10日 (月)

中国の写真機 上海

上海照相機のkamera0213 SHANGHAI201複式写真機。製造年は不詳。 上海照相機有限公司は、バルナック型ライカを元にコピーライカを1930年代には製造していた、上海の写真機メーカーで、中国の写真機業界では老舗に入る会社。上海製のコピーライカは製造されたのが多く、中古店や骨董市では良く見かけられるという。

この複式写真機も2年前、骨董市で見つけたもの。巳のさんより年上の老夫婦が出していた。骨董というよりはガラクタ、日用品のリサイクルといった方がいいようなものを並べていた。ガラクタと一緒に並べられていたのがこの写真機。レンズも比較的綺麗、シャッターも正常、光のもれもない、ボディーもまぁまぁだったので、2,3千円くらいなら買ってもいいかなと、親父さんに「いくら」と聞いたところ、おかみさんが「外国の写真機だから1万円だ」といってきた。

その日は「あっそう」といってそこを引き上げた。翌月も同じように置いてあり、またその翌月も売れないであった。写真機好きなおっさんもその間には何人か立ち寄ったことと思いますが、そこにあったということは、おかみさんの1万円に「あっそう」と立ち去ったものと思う。(笑)

3回目の時におかみさんがいなかったので、親父さんに「1万は高いよ。中国のものは安いんだから」と値切りの探りをいれ、「安くしてなぁ・・・。」親父さんちょっと考えていたけど、「いくらならいい」といって来たので、「親父さんはいくらならいいの」と聞き返した。そんなやり取りの末、おかみさんがいなかった幸運?もあって、2500円で契約成立した代物。乱暴に扱われていたのでその分品質は劣るが、値段相応と思っている。

おかみさんと親父さんの間で悶着がなかったことを祈るのみです。

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2005年10月 5日 (水)

造りも丁寧なアンスコ

ansuko05 アメリカ生まれのNO.1Aホールデイングアンスコ、1915年(大正4年)製。フィルムはアンスコNo6Aまたは6B。コダックの116と同じ。

造りは丁寧でクロム鍍金もしっかり輝いている。90年どんな歴史を見つめてきたのだろうか、ながめて、想像するだけでも楽しくなる。

新潟県の骨董市で値切り交渉をしていたら、すんなりこちらの価格でOKということになってしまったので、冷やかしですともいえないので、買ってきたもの。

大正14年、親父は14歳、お袋は8歳・・・・きっと可愛かったんだろうね。まだ、紅い糸で結ばれていたなんて知らなかったろうに・・・。想像するとなんか可笑しくなる。

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2005年9月26日 (月)

造りもしっかりとした小型写真機BEAUTY

beauty_08 造りもしっかりとした35mm写真機、鍍金もまだピカピカとしている。機能はまだ衰えがない。小型で使いやすい。

1950年初頭、二眼レフから写真機メーカーは小型のレンズシャッター写真機を生産。金属製のボディーにも個性溢れているデザインが多く、今の同じようなスタイルが多い中、斬新に感じている。

本機の製造年や発売価格の詳細は残念ながらデータが手元にないので、不明。製造会社は太陽堂光機(後にビューティカメラ株式会社に改名)。1950年代にビューティシリーズを発売。ニコンS2に続く2番目のアルバタブライトフレーム式レンズシャッター機を誕生させている。

1955年(昭和30年)に「BEAUTY35」を発売。皮ケース付きで8000円という廉価なとはいっても、月給で買うのは難しかったろうと思います。目測式35mmとしては、デザインに優れ、軽量で操作性が良かったので、人気があったという。本機はその後継機か。

骨董市で買ったものと思うが、いつ、いくらで買ったのかあまり記憶がない。ただ、時々取り出しては遊んでいるが、なじみやすく気に入っている写真機ではある。

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2005年9月23日 (金)

爆発的に売れたというリコーフレックス

ricohflexv リコーフレックスは1951年(昭和28年)「リコーフレックスⅢB」として、理研光学から6,800円という低廉化で発売。品不足でプレミアが付くほど爆発的に売れ、二眼レフブームの台風の目となったといわれています。

3枚玉レンズ、3速シャッター、ノブ巻上げ式。これは小さな町工場レベルでも簡単に作れるという簡便さがあって、いわゆる、四畳半メーカーの乱立するところとなった。ブランド名がAからZまですべてそろっていたと言われています。

写真のモデルVⅡは1954年(昭和29年)に発売されたもの。焦点合わせを前面のギヤーのかみあわせで行ったのもで、ノブにより距離あわせをしているものが多い中で、ユニークなスタイルといえようか。構造はシンプル・・・単純明快な構造、これが安さに繋がって二眼レフのブームが世界的に流行したのかもしれません。

骨董市でケースもなかったので、3,000円で買のですがもう少し値切っても良かったなかと思ったりしています(笑)。

この年、戦前の木造社宅から、鉄筋コンクリート4階建ての新造アパートに引越し。内風呂はなかってけれど、台所も広く、6畳二間から4畳半が加わった3部屋、4畳半の部屋には小さいながら堀コタツがありましたね。トイレは水洗。当時としては超近代的社宅でした。住まいは1階で、建物の前は広々としていました、後年マイカーブームで広い前庭は駐車場と化しましたが。NHKのラジオからは北村寿夫原作「新諸国物語 紅孔雀」が毎日放送され当時読んだ吉川英治の「神州天馬侠」「ひよどり草紙」の面白さも相まって、わくわくしながら聞いていたなぁ。後年東映から中村錦之助、東千之介などで映画にもなって、夢中でみにいった。それから雑誌「冒険王」?だったかな武内つなよしの「赤胴鈴之助」も懐かしい記憶として残っています。

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2005年9月20日 (火)

オリンパスペンに対抗ヤシカ・ラピード

yashicarapide002 9月3日より17日まで病院という名のリゾートホテルに宿泊。長い2週間でした。その間お休みさせていただきましたが、今日からまた、再開。

この写真機は骨董市でガラクタの箱に無造作に放り込まれていたものです。骨董屋のオヤジは写真機にはまったく無関心。「写真機はキャノンしかしらねぇや」というくらい。「んだどもよ、ただというわけにもいかめぇな」というオヤジの言葉に1000円で買ったもの。セルフタイマーが作動しなかったものの後はOK。

1961年、ヤシカカメラ発売。価格不明。露出計内蔵のハーフ判写真機。「オリンパスペン」の大ヒットに合わせて開発されたと思います。普通に構えれば画面が横になる縦型。フィルムの巻上げはユニーク、巻き上げレバーを下に引くという、縦型に合わせたもの。しかしこのスタイルはブームにならなかった。ハーフ判のたて画面をフルサイズとは異なるものとしてとらえたというユーザーに嫌われたのか?

小さいながらコパル00番シャッター付きであることが珍しいのか、スタイルが変っているのか分からないが、栃木県益子町にある「ペンタックス博物館」に展示されているという。まだ行ったことはないが入場料は無料とか。一度訪ねてみたいミュージアムではある。

1961年といえば、好きな石原裕次郎の「銀座の恋の物語」やフランク永井の「君恋し」が大ヒット。カラオケのない時代宴会も生オケで社会人2年生は必ず何か唄わされた・・・。また、後で私のマイカー第1号となった空冷「パブリカ」がでトヨタから発売された。世の中「岩戸景気」の真っ最中・・・中古のマイカーがやたら目立ち始めたなぁ。道路にところどころでオーバーヒートした車がボンネット開けていたのも見受けられたのもこの頃か?

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2005年9月 2日 (金)

景品で貰ったパノラマ写真機

PANORAMA この写真機、「PANORAMA」と書かれた箱にはいったままで、メーカー名もスペックも取扱説明書もない。スーパーのクーポン券で1990年(平成2年)ころもらったもの。プラステックボディーで、絞りもシャッター速度もなくレンズは単球。前面に「View」と表記されているのが写真機の名前か?フィルムの装てんという作業がなければ、撮りきり写真機となんら変らないか。ストロボの内蔵はない。アクセサリーは付いているが使ったことはない。

写りはそれなり・・・・旅行などで、遠景の風景写真を記念にと軽く考えておけば、腹も立たない程度か。軽くて気軽に取れるので、旅のお供に結構同伴しています。絞りもシャッター速度もないので、現像仕上がって見なければ出来はわからない。物を見るまでは責任は取れません(笑)

この頃は「冠二郎」の歌が好きで、カラオケでは「旅の終わりに」「酒場」なんかを、ミラーボールの中で唄っていたな。1991年、「酒場」で冠二郎、NHK紅白歌合戦に初出場・・・妙なこと思い出しました。

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2005年8月29日 (月)

四畳半メーカー写真機 セミレオタックス

semilotax セミレオタックス・・・製造年・発売年・発売価格不詳。骨董市で見つけたもの。程度はあまりよくない(笑)

戦前、日本の写真機はドイツの写真機の模倣といわれながら、たくさんの四畳半メーカーといわれる町工場製造の写真機が世の中に出回っていました。町工場で作られたこのスプリング写真機、セミレオタックスは6×4,5cm判、120フィルム使用で、メーカーは昭和光学(1939年設立)。

セミレオタックスは1941年(昭和16年)に発売されています。名前の由来はドイツのメーカー「ライカ(LEICA)」と「コンタック(CONTAX)」の合成で「LEOTAX」となったといわれています。当時この写真機はカメラマンに人気があり、愛用されたと言うことです。

町工場で作られた写真機といえども優れた写真機であったということではないでしょうかね。

1941年は日本が戦争に突入した年です。この時代写真機のある家はほとんどなかったのではないでしょうか。我が家の写真はみなスタジオ写真。16年生まれの巳のさんの最初の写真も親父に抱かれたスタジオ写真です。

しかし、お袋がまだ20代の独身時代、撮影年月は不明ですが江の島海岸での海水浴場で胸まで水につかっている写真がのこっていますが、これはスナップ写真です。誰がどんな写真機で撮ったのか今は知ることは出来ないけれど、こんな写真機で撮ったのかと想像するだけでも楽しく、素敵なことと思っています。撮影は親父ではないと思っていますが(笑)

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2005年8月26日 (金)

有楽町で逢いましょう・・・の時代でした。

orinpasuAce OLYMPUS-ACE・・・。オリンパス35シリーズで更なる発展を遂げてきた写真機。ドイツのライカを意識したことは明らかで、ライカM3の影響を反映している。シャッターはフォーカルプレーインシャッターではなく、ビハインドシャッターを装備、交換レンズズイコーを用意した優れもの。

発売は1958年(昭和33年)。

昭和33年といえば、「異国の丘」で有名な吉田正作曲の名作「有楽町で逢いましょう」が大ヒットした年。ジャズシンガーフランク永井が歌謡曲に転向して、低音ブームを巻き起こし、今でも唄い継がれています。また、初代コロンビアローズ「東京のバスガール」は当時の憧れの職業「バスガール」と相まって大ヒット・・・連日ラジオから流れない日はなかったと記憶しています。

ポップスも全盛・・・「ダイアナ」「ユアー・マイ・ディステニー」のポールアンカーが広くヒット。その翌年1959年、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」が大ヒット。小林旭、浅丘るり子主演で映画にもなり、大ヒット・・・・映画全盛の時代でした。高校生で学費稼ぎのアルバイトに明け暮れていましたが、石原裕次郎の映画とともに必ず立ち見のぎゅうぎゅうずめの中、文句も言わず見ていました。

石原裕次郎には北原三枝、小林旭には浅丘るり子だったかなぁ?共演女優は。

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2005年8月24日 (水)

多くの人に愛されたグリーン・オ・マチック

petri2 1955年に発売されたペトリ35の改良型。

1958年(昭和昭和33年)採光式プライトフレームを採用した「グリーン・オ・マチック」が登場。距離計と採光式を覆う窓にグリーンのガラスを採用したことが特徴。また、シャッターも最高速1/500秒へグレードアップされ、無理のない設計のオリコール45mmF2.8レンズの優れた描写力と高い機能を持ち質実剛健なつくりがペトリらしく、安価な写真機として、多くの人々に愛された写真機です。

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2005年8月23日 (火)

栗林写真工業・ペトリ35

petori35 ペトリ写真機は栗林写真機製作所(後ペトリカメラ株式会社と改名)が、大衆価格の写真機を作り続けた写真機の代表作のひとつが、ペトリ35でした。

1955年(昭和30年)に誕生し、必要にして充分な機能をもった距離計連動写真機で、高いコストパフォーマンスが大いに歓迎されました。

私はまだ中学生。島倉千代子の「この世の花」やラジオ放送「君の名は」が流行っていた頃でした。「君の名は」銭湯の女風呂がガラガラになると言われた・・・・・。当時は内風呂を持っている家は少なかったとお思う。大概は銭湯。社宅の銭湯は5円だったと記憶しています。

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2005年8月19日 (金)

キャノンMCクォーツデート

canon_mc__01 1984年(昭和59年)4月発売、発売価格52,000円。

プラスチックボディーが完全に普及した、まったく新規の横長ボディーの「スナッピー50」(1982年・7月発売)AF完全自動機種、EEは電子制御のプログラム式の系統のコンパクト写真機。

MC,MC10と続けて価格も廉価で発売されたが、すでに発売されていた「オートボーイ」系に埋没した格好で、1985年3月MC10(発売価格36,000円)で生産が終っている。

亡くなった親父の遺品。この頃電子回路が不良気味。

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2005年8月18日 (木)

100万台を超えたキャノンの主力写真機「キャノンFTb」

kamera0389 お盆も過ぎて、朝夕は少し涼しくなり、今日も涼しい風が吹いて、開け放たれた窓からは、心地良い風が入ってきました。葛の花、萩の花も少しずつ見られるようになりました。行楽の季節が近づいてきています。30歳代のころ、キャノン一眼レフが大きな反響を呼んでいました。

         その写真機は、1971年(昭和46年)に発売された、キャノン初のプロ仕様のフラッグシップモデルF-1です。

外国映画などで、写真機が出て来る画面では、「CANON]のロゴがやたらと目に付きました。それだけ世界のキャノンとして通用し、それを持っていることがステータスだったのかも知れません。今は「NIKON」の方が多いかも知れません。キャノンの前は「ライカ」でした。

そのF-1と同じ基本機能を持った中級スタンダードモデルが「FTb」。

F-1用に開発されたFDレンズが使える「35mmフォーカスプレーンシャッター式一眼レフレックス写真機 FTb」は、1971年3月、35,000円で発売されました。軍艦部や下部などは超シンプルに構成されています。大型のセルフタイマーレバーが特徴。重さは当時としては当たり前の750g。今持ち歩くと非常に重く感じられます。

写真機のスタイルとしてはオーソドックスなデザイン。飽きないスタイルといえようか。

2年後(1973年7月)改良型「FTb-N」が登場し、「FTb」モデルとして、生産台数が100万台を超え、当時としては、キャノンの主力モデルでした。また、1975年には仕様を簡素化した輸出用普及モデル「TX」が製造されています。

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2005年8月12日 (金)

馬鹿チョン写真機の原点 オリンパスEES-2

olympua_ees2 オリンパスペンが登場した1960年代(昭和35年)は日本でテレビが普及し始めたころです。「おばぁちゃんでも子供でもスイッチを入れるだけで、テレビを見ることが出来るのに、なぜ写真機は簡単に写すことが出来ないのか」という発想は当初はなかなか受け入れられなかったそうです。

ピントも露出も自動・・・シャッターボタンを押すだけで、写真が誰でもが気軽に撮れる写真機は特許を十数件もとりながら、コストダウンを計って実現されたと聞いています。

このオリンパスEES-2は1968年(昭和43年)から1980年(昭和55年)まで12年間に渡って製造発売されました。発売当時の価格は12,800円。オリンパスEEからバージョンアップの写真機で、対応するフィルムはISO400。ゾーンフォーカスが1m、1.5m、3m、∞の4点になっています。アクセサリーシュが追加装備。裏蓋が兆番式となっています。

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2005年8月10日 (水)

ANSCO CLIPPER

kamera0068 アメリカ・アンスコフィルムを製作している、アンスコ社製の写真機。

ベークライトで出来たボディーは重量感があり、しっかりしている。写す時はボックスを引き出して撮影する。持ち運びの時はボックスを押し込む。そうすると蛇腹式写真機の折りたたんだようになる。シャッターはばね式でシャッタースピード設定はない。絞りもない。フィルムは4.5×6.0「ANSCO616(PD16)」の専用フィルムを使用するようです。レンズは単球。

製造年不明。

2003年ころ、新潟の骨董市で見かけて、珍しいので買ったものです。

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2005年8月 8日 (月)

親父の愛用 オリンパストリップ35

olympus_trip35 菩提寺「長福寺」は「お施餓鬼」。この日は毎年猛暑で、本堂で拝む10人をこえる僧侶たちも汗を拭いながらのお勤め。今日も暑かった。本堂に上がっての坊さんの施餓鬼法要を小学2年の孫は瞬きもせず、読経が終るまで正座のまま。異様な世界に映ったかもしれません。焼香に足がしびれたとヨチヨチ歩き。塔婆を貰い、お墓を掃除して、花を飾り、線香を上げて。帰りはもうお昼。孫の希望で回転すしで昼食。

平成9年9月9日になくなった親父が愛用した写真機。購入したのはいつの頃かは定かではないが、旅に出かけるときは、いつも手の中にありました。現像だけしてきたフィルムを黙って差出す。焼付けは私の仕事。狭い暗室で当時の言葉で「名刺サイズ」に焼き付けました。

オリンパス35シリーズで1968年(昭和43年)発売。発売価格14,800円。1967年(昭和42年)ペンEESをベースに海外発売を目的として発売されたもの。20年も生産され続けたベストセラーモデルでした。

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2005年8月 7日 (日)

写真機といえば・・・コダック

kodak-2APremo 今日は立秋・・・しかし、日本列島真夏。30℃をはるかに超えて、しばらくは続くだろうと、天気予報が出ている。台風も気配がない。打ち水も焼け石に水。子供の頃も入道雲がぎらぎらとして、暑い夏で毎日、海水浴にうつつを抜かして、宿題をや絵日記を夏休みが終る頃、親父に手伝わせた・・・切ない思い出がよみがえってきた。

古い写真機を見ていると、遠い時代をどんな風に過ごしてきたのかな・・・・と、想像は果てしない。

KODAK NO 2A FOLDING CARTRIDGE PREMIO (コダック ナンバー2 フォールディング プレミオ) イーストマン・コダック社製1925年(大正14年)~1935年(昭和10年)に製造・発売されている。 レンズ単玉ベス単と同じ玉のようですが、フィルムサイズが大きい(多分6x9cmくらい)なので、焦点距離が長いようです。なのでベス単よりだいぶF値が大きくなるようです。フードをはずすと、ベス単と同じようにソフトフォーカスになります。
今は実用には向かないが、シャッターを切ったり、見ているだけでも楽しい。

コダックは1888年「ザ・コッダク」ではじめての写真機を世に送り出しています。この「Folding Cartridge Premo」は企業買収したPREMO系写真機です。

コダックには企業買収などにより、たくさんの種類が発売されて、使用するフィルムも実にさまざまなものがあります。この機種のフィルムは「116」1899年(明治32年)には発売されています。

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2005年8月 6日 (土)

シャッターを押すだけ・・・。オリンパスEE-2

OLYNPUSPEN-EE-2 今日は水戸市で行われる「黄門祭り」で、テレビの「水戸黄門」に出演している由美かおる、助さん格さん役の俳優がくるということで、暑い中、小2の孫を連れて出かけました。JRの電車で出かけましたが、踏み切り事故などでダイヤが大幅に狂い、水戸に着いたのは予定より1時間も遅れてしまいましたが、祭りの賑やかさなど、孫は何もかもが初体験でした。

こんな時の写真機で思い出されるのは、これ「オリンパスペンEE-2」。シャッターを押すだけで誰でも取れる全自動。プロがサブ写真機としても使えるということで、開発された。またハーフサイズのため36mmの倍、枚数が撮れるので、カラーフィルムがまだ高い時だったこともあり人気がありました。

オリンパスEEは1961年8月発売、発売価格が10,000円。世界初のプログラムEE。このシリーズは20年以上にわたって販売された超ロングセラー写真機。

EE-2の発売は1968年(昭和43年)、発売価格は11,000円。シャッタースピードが1/30秒と1/250秒自動切換え式に改良。フィルムはISO400まで対応。

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2005年8月 4日 (木)

形が面白いから・・・アーガスC3

arougaus 今日も真夏の太陽が照り付けて、熱い。熱帯夜・・・連続何日になるんだろうか。今夜も寝苦しいかも・・・・。その時は変った写真機でもいじっていよう。

「アーガスC3」・・・アメリカのラジオメーカーIRCが「アーガス」という名で最初に製造したのが1936年(昭和11年)。その2年後、1938年(昭和13年)に原型のC型が登場した。1939年C3が登場し、以後製造停止される1966年まで28年間もの長期間、同様のスタイルで製造された。

独創的なスタイルが目を引く距離計連動式で、上下像合致式でピンとも合わせ易い。ボディー角が直角で奥行きも適度にあり、独特のホールディング感がある。重量760g超。

アメリカでは「レンガ」日本では「弁当箱」と呼ばれ、多彩なバリエーションを持ったアメリカのスタンダード写真機。アメリカの中流家庭の多くがこの写真機を持っていたといわれている。

アーガスというネーミングもIRC社長と設計者の名前の一部を組み合わせてつけられた。だから「argus」という名に特別の意味はない。

写真を撮るということではなく、形が面白かったので、骨董市で見つけ、野次馬根性で買った写真機です。

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2005年8月 3日 (水)

オリンパス35-S

orympus35-s 1957年(昭和32年)発売。この写真機はズイコーレンズを搭載し、開放値F3.5や本機のようにF4.2など、さまざまなバリエーションがある。

距離計連動式。露出計はない。重量600g。ずっしりとした重量。金属写真機の持つクローム鍍金のなまめかしさが漂う。

今日のような猛暑に肩に下げて、海水浴場をうろうろするのは、今の時代には合わないかもしれないが、当時はピカピカと光って、格好いい写真機でもあった。

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2005年8月 2日 (火)

コンパクトのキャノネットG-ⅢQL17

canongcanonet_ql17 コンパクトカメラとして長く愛用され、11年間で120万台も売れたロングセラー機。Gはグレードアップ、Ⅲはキャノネット、ニューキャノネットに続く第3シリーズのこと。ニューキャノネットQL17のバージョンアップモデル。シャッタースピード優先式AE写真機。

1972年(昭和47年)発売、発売価格15,000円

手の中にしっくりと納まり、写真機だぁ・・と感じる少年の頃の興奮があります。

今はなかなか出番は無く、静かに収納棚に納まっている。

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2005年8月 1日 (月)

ミリオンセラー キャノンキャノネット

Canonet 1961年(昭和36年)1月 2万円を切って19800円で発売。発売2時間で完売という大フィーバーを巻き起こし、ミリオンセラーとなった。キャノンの初のレンズシャッター機。レンズ周囲のサークルで囲む受光窓は他社に多数コピーされた優れもののEE機である。

2万円以下で発売したので業界からはダンピング行為と非難が沸き起こった。話題性でも大きくまたEEカメラの便利さを大衆に広めた立て役者でもあった。(当時の私の月料は5500円でした)

写真機のデザインもシンプルでゴージャス。フィルム巻上げは底部のトリガー100回転による1動作式。

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2005年7月29日 (金)

旅のお友達 エスピオ120Mi

120 ペンタックスクオーツデート「エスピオ120Mi」は私の旅行の友達として本当にお世話になりました。販売価格52000円・・・購入価格48000円。

まだデジカメの出現する前の手のひらサイズの小さな写真機。軽量コンパクト、ズームレンズ内蔵フルオート35mmレンズシャッター、38mm広角から120mmまでのズーム、フィルム途中でのパノラマ、標準切り替え、離れたところから撮影できるリモコンなどを備え、また逆光に強い「逆光自動補正、ストロボ自動発光」、手軽な写真機として重宝しました。

この写真機で撮影した写真は優に5000枚は下らないし、旅のお供は海外、国内いたるところの歴史を見てきています。デジカメの購入後も活躍しましたが、2004年陳列棚に収納されました。

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2005年7月27日 (水)

ミノルタフレックスⅡB

minoltaflex01 1952年(昭和27年)。レンズはⅡ型(1950年)と同じコーテングされたロッコールレンズで、後期型のものはビューレンズもロッコールのものもありますが、これは残念ながらその前のもの。

子供のころこの写真機を首からぶら下げて、社宅の中を闊歩している人があり、やたらにレンズを向けてはシャッターを切り、後日、写真を持て自宅に現れて、写真代を請求していたのを覚えている。しかし、そのぴかぴかの写真機をぶら下げているのが凄く格好よかったもの本当でした。大人になったらあんな写真機を買いたいと憧れました。

これは骨董市で見つけて買ったもの。

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2005年7月26日 (火)

HALINA 35X

halina35x HALINA 35X。

日本「レンジャー35」、香港「ミクロンタ35X」とまったく同じなのですが、HALINA35Xのデータがないので、困ったといえます。

ミクロンタ35X(香港)は日本の「レンジャー35」のそっくりさん・・・コピー?として、1959年(昭和39年)ごろ、低廉化の35mmレンズシャッターカメラとして発売されている。レンズはハリーナ45mmF3.5シャッターは1/25~200秒。530g。

この写真機「HALINA35X」の仕様はまったく同じなのです。

コンパクトで製品としては丁寧な作りといえようか。

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2005年7月25日 (月)

キャノン7型

Canon701 1961年(昭和36年)、発売価格86000円と高い写真機でした。高校生の初任給が5~6千円くらいだったと思います。

キャノンレンジファインダーの最後のシリーズとなった名機。一眼レフの新機種が各社から次々と発売され、1965年7S型を最後にレンジファインダーは姿を消しました。

世界最高の明るさを誇る50mmF0.95の大口径レンズを装備。また2000mmF11といった超望遠レンズも使用できた。

私は残念ながら望遠は持っていない。

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2005年7月24日 (日)

アサヒペンタックスME

asahipentakuEM アサヒペンタックスMEはフルマニュアルのMXとAE専用機に徹して始ったMシリーズはMEはペンタックスの電子化を大きく前進させる記念すべき写真機です。

1976年(昭和51年)11月発売。定価50000円。シャッターダイヤルを省いた絞り優先AE専用機。撮影者が作画に専念できるように情報を集中し、操作を簡略化することをコンセプトとして貫かれている。

電源は水銀電池であるが、今はない。MR9ADAPTERを使用して、SR43の電池で代用できる。

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2005年7月23日 (土)

アサヒペンタックスオート110

1979年発売。価格はボディーのみで29000円。110外見上は35mm一眼レフをそのまま縮小したスタイルをしている。横幅サイズが99mmなので本当に手のひらサイズのポケットカメラ。専用のストロボなどアクセサリー類も充実したシステムカメラです。

24mmの標準レンズ意外に交換レンズとして、広角の18mm、望遠の50mm、ズームの20-50mmなど5本がある。

フィルムは13mm×17mmの110を使用。

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2005年7月22日 (金)

どこへでも気軽に コニカC35

konikac35_flashmatic コニカC35フラッシュマチックは1971年(昭和46年)コニカC35の改良型として発売された。価格も14000円台でした。広角系のレンズを距離計に連動したプログラムAEで、誰でも気軽に、フラッシュ撮影も楽しめて、失敗のない写真が撮れるというのが売り込みでした。

小型で軽く、現在の馬鹿チョンに近いと思う。当時、「ジャーニーコニカ」のニックネームがあり鉄道ファンが良く利用したといわれています。「ピッタリコニカ」「ジャスピンコニカ」の愛称で親しまれた写真機が登場している。

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2005年7月21日 (木)

ミノルタSRーT101 BLACK

minolta_srt10101 1966年(昭和41年)4月発売(当時の価格32600円)、写真機は高価なものです。当時はサラリーマンの平均所得の2~3倍くらいなのかなぁ。

これは中古で手に入れたのですが、今でもずっと愛用しています。今の写真機と違い、ずっしりと重い。半日持ち歩いていると肩や手首が痛くなる。カタログには700gとでている。望遠は200mmで固定式。これがまた重いのである。

手の中に納まった感触やシャッターを押した時、「バシャッ」っと、機械式横走行布幕の大きな音がする。なんともいえない快い音です。

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2005年7月20日 (水)

ヤシカ4×4

yasika44 ヤシカ4×4はローライフレックス4×4が発売された1957年の翌年、1958年(昭和33年)6月、35,000円で発売された二眼レフです。ローライフレックス4×4と意匠が酷似していたのでアメリカのローライ代理店から訴訟を起こされたといういわく付きの写真機です。

7色のカラーバリエーションがあり、これはチャコールグレーです。写真機のカラーバリエーションとしては最多でしょうか。

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2005年7月19日 (火)

新婚旅行に活躍

minoltaunionat  ミノルタユニオマットⅢ

1960年に発売された追針式メーター連動式写真機の簡略型

結婚前年に買った様な気がするが、はっきり覚えていない。10回月賦(今はローンというか)。支払いに苦労した。

新婚旅行、子供たちの成長記録として、活躍した写真機です。今でもしっかり使えるが、セルタイマーがやや動きが悪くなってきている。

ハーフサイズカメラに乗り換えるまで大活躍した。軽くて扱い安い、いい写真機です。

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2005年7月17日 (日)

ヤシカ・エレクトロ35GS

Yasikaeiectro35gs ヤシカエレクトロ35GSは1970年(昭和45年)6月発売。

この時代はカラーフィルムが本格的に普及し始め、写真機メーカーはこぞって、色の綺麗なレンズを開発していった時代でもある。

GSは初期のエレクトロ35の完成形といわれているが、1969年3月発売のエレクトロ35GTの後期機と仕様は変わっていない。

レンズはカラーヤシノンDX 45mmF1.7と変わっていないが、レンズの設計が耐亜硫酸ガス特殊ガラスになったということ、周辺光量もこれまでのモデルより改善されてということである。

その後、ヤシカエレクトロ35GSNが出て、アクセサリーシュに変わって、専用ストロボが使えるようになったということであるが、あいにく持ってはいない。

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